※当初、5/26(火)〜31(日)開催予定でしたが、非常事態宣言の延長と皆さまの安全を考慮して、日程が変更となっております。
ご確認ください。
「Flash Back―高橋信宏 回顧展」開催のご案内
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スタジオ カッシー 西麻布(東京都港区)は 2020年6月26日から28日までの3日間、「FlashBack―高橋信宏回顧展」を開催します。自動車雑誌『カーグラフィック』の社員フォトグラファーとし て 1992年にキャリアをスタートさせた高橋信宏さんは、豊かな感性と都会的な洗練された視点を 併せ持つ自動車写真を数多く撮影し、同誌に新風を吹き込みました。またフリーランスのフォトグ ラファーになってからは、自動車にとどまらず、広告やアーティストのCDジャケットなどにも活動の フィールドを広げ、心に残る作品を数多く遺しました。スタジオ カッシー 西麻布では、2017年に惜しくも48歳の若さで急逝した高橋さんの作品を展示し、その足跡を振り返ります。
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回顧展情報
・名称 「Flash Back―高橋信宏 回顧展」
・会期 2020年5月26日(火)~31日(日) * 2020年6月26日(金)~28日(日)
・時間 14:30~20:30 (最終日、6月28(日)は、18:30まで)
・場所 スタジオ カッシー 西麻布
・住所 東京都港区西麻布 4-1-1 麻布霞町マンション 201-A
※西麻布交差点、ローソンさんがあるビルの2階
・安心して観覧していただく為に、マスクの着用をお願いしております。
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高橋信宏 略歴
1968年生まれ。日大藝術学部卒業後、株式会社二玄社に入社。1999年に退職した後、フリーラ ンスとなり、自動車や人物の撮影を多く手がける。2017年5月28日に逝去。享年48歳。『カーグ ラフィック』誌をはじめとした多くのエディトリアルや、ポルシェジャパンなどのオフィシャルカメラマンとして活躍。氏の人柄や写真を慕う者が多く、若くしての逝去が惜しまれる。
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開催に寄せて(元同僚の言葉)
「高橋カメラマンと僕はカーグラフィックの同期でした。この世界に入ったとき、僕は写真の見方な どまったくわかってなかったのですが、それを教えてくれたのが高橋でした。同じ場所で、同じ被写 体を見ていても、想像もしなかったアングルや、気付かなかった光を捉えて提示してくる。そして心 が動かされる。カメラマンとはどういう仕事なのか。それを教えてくれたのが、誰あろう高橋でした」 (竹下元太郎 『カーグラフィック』編集長)
高橋信宏(たかはし のぶひろ)
1968年11月15日、
東京都文京区にて父:孜、母:さわ子の長男として生を受ける。
1984年4月 東京都立竹早高校
1988年4月 日本大学芸術学部写真学科
1992年4月 株式会社二玄社入社
1999年10月31日 二玄社を退職、フリーランスとなる
2017年5月28日 逝去
享年48歳
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2011年2月27日、南青山のル・アンジェ教会で笑顔を浮かべる高橋君。
元同僚の小河原 認さんと一緒に私の結婚式でオフィシャル・フォトグラファーを務めてくれたときの写真だ。これは受付で会場にやってきた皆さんを待ち構えているところ。F1フォトグラファーとして世界的に著名な金子 博さんが高橋君に気づき、撮影してくださった。なんとも高橋君らしい笑顔だ。ネクタイをわざと緩く結んでいるところも、いかにも高橋君らしい。
「藍屋の白袴」ではないけれど、高橋君がカメラを構えてにっこり微笑む写真はほとんど残っていないそうだ。このため、ご両親のお宅にあるお仏壇には、遺影としてこの写真が飾ってある。(大谷達也 自動車ライター )
●1992年10月号/高橋君の写真が初めてカーグラフィックの表紙になった
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高橋君は1968年11月15日生まれです。なので今年で52歳になります。なぜ彼の誕生日を覚えているかというと、私も11月15日生まれだから。私が1歳年上です。高橋君と私は同期で、1992年に二玄社に入社し、『カーグラフィック』編集部に配属になりました。
この1992年10月号の表紙は、鈴鹿サーキットで行われたソーラーカーレースをとらえたものです。取材班は、生方、江木、岩尾の各氏。この3人も同期です。
入社したての同期ばかりで鈴鹿に行き、レーシングカーより、はるかにのどかなペースで走るソーラーカーを追いかけたのですから、のんびりしてて、楽しい取材だったのではないでしょうか。新人ばかりだったから、高橋君もリラックスして臨めたのではないでしょうか。
実はこの取材は2カメラマン態勢で、先輩の荒川カメラマンも現地にいらっしゃいました。それにもかかわらず、高橋君の写真が表紙に選ばれました。だから、たぶん、戸惑いながらもうれしかったと思います。
当時の編集長である熊倉さんは、将来の『カーグラフィック』のあるべき姿を考えて、「これからはこういったクルマにも目を向けていかなくてはならない」と、よくおっしゃっていました。当時はまだクルマの馬力や動力性能に対する関心が強く、スポーツカーの人気が高かったので、こんな環境車が表紙になるなんて異例中の異例だったのです。
初々しく、かつ前途洋々な新人、高橋君の写真を表紙に使うということ。それは今思うと、熊倉さんの環境車に対する前向きな姿勢と、どこか重なってきます。
この写真は高橋君の、いわばカーグラフィック表紙のデビュー作です。「入社早々、表紙に選ばれるなんてすごいな高橋。僕も頑張らないと」と、ちょっと嫉妬まじりに感じたのを、昨日のことのように覚えています。(竹下元太郎
カーグラフィック編集長 )
●1993年10月号/ルノー・クリオ・ウィリアムズと水しぶき
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ブルーメタリックのルノー・クリオ・ウィリアムズに水しぶきがかかっているこの写真は、高橋君にとって2回目の表紙だと思います。
広尾のSiFo(シーフォ)から上陸したばかりのクリオ・ウィリアムズを借り、動力性能の計測のために、茨城県・谷田部にあった日本自動車研究所(JARI)に行きました。そのときに撮影したものです。
ピットにあった水道の蛇口にホースがつながっていて、そのホースの口をつまんで、水を勢いよく掛けているところです。取材は8月でした。夏らしくとてもよく晴れた日で、そもそもは洗車するために水を掛けたんだと思います。しぶきに日が反射して、キラキラしてきれいでした。
それを見て、高橋君はシャッターを押しました。表紙への使用を前提にした撮影ではなかったと記憶しています。クリオ・ウィリアムズの溌剌とした走りのイメージと、とてもよく合っている。高橋君はカメラマンとして半ば本能的にシャッターを押したのではないでしょうか。
基本的に、こういった演出の入った写真というのは、ドキュメンタリーとしての試乗記には使いづらい。使えても「トビラ」でしょうか。でも高橋君は、そんなことは考えず、ただきれいだったから撮ったのではないでしょうか。
この試乗記は私が執筆を担当しました。登場時からすでに名車の気配を漂わせる、高い実力を備えていたクルマだったので、新人の私はかなり緊張して臨みました。
当時高橋君は24歳、私は25歳。新入りのころ、一緒に手応えのある仕事をしたという点で、この写真は忘れられません。(竹下元太郎
カーグラフィック編集長 )
●1995年11月号/フランクフルト・モーターショー
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1980年代から90年代にかけて、『カーグラフィック』のモーターショー取材は、齋藤浩之さん(現在『エンジン』編集部)と小河原認さん(現フリーランスカメラマン)が主に担当していました。ところが、私がカーグラフィックに入るちょっと前に、斉藤さんが『NAVI』に移られた。ちょうど「ショー担当」が空席になっていたのです。私が立候補して、小河原カメラマンとよく海外のショーに出してもらっていました。この写真は1995年秋のフランクフルト・ショーでのものです。私は小河原さんではなく高橋君とフランクフルトに行きました。BMW
5シリーズ、アウディTT、トヨタ・プリウス・プロトタイプ、ロータス・エリーゼ等々、その後、名車として語られるクルマがたくさん出ていて、取材していてとても面白いショーでした。
新型BMW
5シリーズに男性が乗り込むシーンを捉えた写真がこの号の表紙になりました。こういう写真って、ショーのリポートにはなかなか使えません。ショーの写真は「形式写真」が好まれるからです。でも高橋君はそれを承知で、現場の空気の表現を追いかけていたのでしょうね。
モーターショーの写真を表紙に使うことは、当時のカーグラフィックではたまにありましたが、人物が入っている写真はありません。異例と言っていい。
高橋君は、モーターショーの取材は嫌いではなかったと思います。特にジュネーヴ・ショーが好きだったようです。ローザンヌに泊まって、毎朝、ジュネーヴまで通ったり、トリノ郊外で別の取材を終えて2人でレンタカーでジュネーヴに入ったり、高橋君とはいろんな取材を経験しました。当時を振り返ると、ちょっと感傷的な気持ちになってしまいますが、楽しい思い出です。
また高橋君とショーの取材に行きたいな。そう思って、彼が愛用していた折りたたみ式カートを、今でも保管してありますよ。(竹下元太郎
カーグラフィック編集長 )
高橋にとって僕はただの先輩のひとりだったかもしれない。しかし僕にとってはなんとなく歳の離れた弟分みたいな存在だった。
なんだか可愛い。CGに入社した20代前半から亡くなるまでずっとそうだった。
その理由を自問するに「のめり込み方」が僕に似ていて、ヤツの心理が手に取るようにわかるから、だったと思う。
波乗りを始めたらそればっかり。スキーやマウンテン・バイクも同様。恋愛もまたそうだった。
思い込んだらとにかく一途。脇目もふらずまっしぐら。
そんな高橋の逞しい、しかし同時にちょっと無鉄砲な、時に危なっかしい生き方が僕は好きだった。少し心配でもあった。
素顔の彼は実に気さくな男である。しかもムードメーカーだった。
ムードメーカーに大切なのは何より気遣いだ。仕事の場でも合コンの席でも、高橋は常に気遣うことを忘れなかった。時に自虐し、後輩をからかう体を装って場を盛り上げた。恐らくそれは奴の自然体。芯からに身についたもので、無意識だからこそ嫌味がなく、スマートだった。そんな時高橋は眩しく、弟分として誇らしくもあった。
仕事帰りや打ち合わせでオフィスに顔を出してくれるだけで、何やら無性に嬉しかったことを思い出す。
葬儀の席で人目も憚らずおいおい泣いたことは2度目である。
二人とも年下の仕事仲間。最初は突然死の同僚を見送った時だった。
高橋の容体がのっ引きならないことは知っていた。つまり別れの日の到来を覚悟する時間の余裕はあったはずだった。しかし愛する人間の死がもたらす悲しみを前に、人は無力である。覚悟なんて何の役にも立たない。そのことを改めて知った。
人を気遣う前に自分を気遣え。気遣いするなら先に逝くなこの馬鹿野郎。
今さら言っても詮ないことが、高橋の耳に届かないことが、今もまだひどく寂しい。
(加藤哲也 カーグラフィック代表)
ご両親によれば、高校時代まで高橋君が写真に強い関心を示したことはなかったそうだ。
1984年4月、高橋君は進学校の都立竹早高校に進学したものの、この当時はまだ進路が明確に定まっていたわけではないらしい。一時は音楽の演奏家として身を立てたいとも考えたようだが、ご両親に説得される形で諦める。
その後で高橋君が言い出したのが写真家になることだった。ご存じのとおり、お父様の孜さんも写真家として活躍していらっしゃった。さすがにこれにはご両親も反対できず、1988年に日本大学芸術学部写真学科に入学。実はこのとき、まだ開設されたばかりの早稲田大学人間工学部を始めいくつかの大学に合格していたが、写真家を志す高橋君は、このなかから自分の意思で“日藝”を選んだのである。
首尾よく日藝に入学した高橋君は、ときにお父様のカメラ機材を借用して撮影活動に励んだ。ちなみに、やがてデジタルカメラが主流になり始めると、高橋君はお父様にその扱いを親切に教示したそうだ。
クルマにも子供の頃から関心を抱いていた高橋君、大学の卒業に際してクルマ+写真=カーグラフィックという答えに辿り着き、1992年に株式会社二玄社に入社。カーグラフィック編集部所属のフォトグラファーとなる。
ちなみに二玄社の2代目社内フォトグラファーだった内山 勇さんを筆頭に、小林 稔さん、荒川正幸さん、小河原 認さんはいずれも“日藝”出身だった。
(大谷達也 自動車ライター)
高橋くんとの想い出
底知れない男、高橋信宏クンにはそんなイメージがある。得体が知れないっていうネガティブなイメージとは正反対で、仲間なのでだいたいのことは知っているはずなのに、移動の車の中で四方山話すると、実は……なんですという「引き出し」がやたらと多い男だった。ドラムもかなり真剣にやっているようだったし、昔、まださほど忙しくない時にはパチプロ(セミかな?)として生計を立てていたのを知った時は驚いたなぁ。もちろん四方山話は異性関係におよぶこともままあったけれど、なんでも真剣というか、のめり込むタイプの人でした。
フォトグラファーとしての能力に関して異論を差しはさむ人はほとんどいないだろうけど、ちょっと自信なさげに「走り、こんなんでどうでしょう?」ってモニターを不安げに見せてくれる時でも欲しいポイントをかっちり押さえているし、寒い中外で待たされた時も、仕上がりを見せられると文句など口に出すことができない、説得力に満ちた作品を見せてくれるのが常だった。
自分がメディアの世界を先に卒業してしまったため、晩年はほとんど付き合いがなくなってしまったものの、彼と一緒の取材はいつも楽しかったし、インポーターになってからも若い世代のフォトグラファーの第一人者として、撮影を依頼したい人リストの最上位にいつも彼の名前を上げていました。
決して力むことなく、いつも飄々としていた高橋クンと過ごした年数は数えてみるとさほど長くないけれど、かなり遠方の取材によく同行したから過ごした時間は長い。だから訃報を聞いて体中の力が抜けた。今はメディアでもインポーターでもないけど、相変わらず自動車の世界で働いているからこそ、もう一度、彼に作品を撮ってもらえたらなぁと今も思う。いつもの調子で「あー、すいませんその日は別の仕事が入っていて……」「そっかぁ、こっちもその日しかダメなのよ」「じゃ何とか調整してみます」そんなごく普通の会話がまたできそうな気がしながら、もうそういう日はやってこないのだと思い出して、改めて愕然とする。
(塚原 久 トヨタ自動車株式会社GRブランドマネジメント部)
これは2010年6月号に掲載した、ホンダCR-Zのテスト記事取材時の一コマです。
撮影場所はJARI(茨城県城里)。高橋信宏カメラマンがシャッターを押しました。
カーグラフィックの社員フォトグラファーは今まで6人いました。
ドラムの腕はなかなかのものだった。
もちろんアマチュアだし、しばらくブランクがあったはずだけれど、テンポが安定しているうえにビート感が心地よかった。「のれる」リズムを刻んでくれるのだ。だからベーシストとして一緒に演奏するのはラクだったし、楽しかった。盛り上げ方もちゃんと心得ていた。
16ビート系の“跳ねるリズム”が好きで、細かく刻む手数の多いオカズも器用にこなした。たまにできないフレーズがあると、しつこく何度でも練習するタイプだった。でも、そんなときでもしかめっ面はしない。いつもの温かな笑顔のまま、「ちょっと、いまのところ、もう1回やってもらっていいっすか?」と遠慮がちに言い出すだけだった。
昔のメールを引っ張り出したら、高橋君が提案してくれたライブの候補曲が残っていた。
I'm not in love/10cc
My Cherie Amour/Stevie Wonder
Don't Stop Believing/Journey
I can't tell you why/Eagles
なかなかのロマンチストだ。
でも、これらとともに提案してくれた、
Black Magic Woman/Santana
はちょっと意外。まあ、サンタナのなかではEuropeと並んでロマンチックな曲といえなくもない。
ご両親が音楽好きで、子供の頃から自宅でベニー・グッドマンなんかを聞いていたそうだ。「ドラムを叩きたい」と言い出したのは都立竹早高校に入学する前後のことで、お母様にねだってドラムセットを買ってもらう。それを学校の部室で3年間叩きまくった後、「ウチに持って帰っても仕方ないし、後輩たちが使うだろうから」という理由で卒業のおりにそのまま学校に寄贈してきたのも、いかにも高橋君らしいエピソードだ。
(大谷達也 自動車ライター )
これも2011年2月27日に金子 博さんが撮影して下さった高橋君。当時、六本木一丁目近くにあったラピーニャというイタリアンで行なった結婚披露パーティにて。カメラを片手に、そして大好きなビールをもう片手に持って、驚いたような表情で笑顔を浮かべている。
頬が桜色だ。
(大谷達也 自動車ライター )
自動車メディアの音楽仲間を集めて“どLive!”というライブイベントを初めて開いたのは2012年の秋だった。
その少し前の2010年くらいから、高橋信宏/ドラム、八木亮祐/ギター、大谷達也/ベースの3人でときどき三軒茶屋の練習スタジオ“NOAH”に入り、セッションのようなことを楽しんでいた。
Smoke on the Water/Deep Purple
Highway Star/Deep Purple
Rock and Roll, Hoochie Koo/Rick Derringer
I Surrender/Rainbow
Cause We've Ended As Lovers/Jeff Beckではなく松本孝弘バージョン
If You Love Somebody, Set Them Free/Sting
Sir Duke/Stevie Wonder
Little Wing/Jimi HendrixではなくEric Claptonバージョン
こんな曲をボーカルやキーボードなしで演奏していた。そして終わると同じ三軒茶屋の“オムニ”という韓国料理屋でメシを食い、大いに酒を呑んだ。そのまま近所のバーになだれ込んだことも1度や2度じゃなかった。
2012年の第1回“どLive!”に出演する話が決まったのは、同じ年の2月くらい。でも、人前で演奏するならバンドの構成をしっかりしなければいけない。それで、すったもんだがあって、結局、本番間近になってCan Dollsという女性コーラスグループに助っ人を頼んでなんとか第1回“どLive!”は乗りきった。でも、Can Dollsと一緒に演奏したのは、これ1回限りだった。
高橋君は2016年11月の“どLive!4”に、もう1度出演している。このときは当時CG編集部に在籍していた伊藤 梓さん(Vo/Guitar)を中心にしてストレスフリーというバンドを結成。ギターの八木さん、ドラムの高橋君、ベースの私にくわえて伊藤さんの知り合いにキーボードを頼んで可愛らしいJ-POPなどを演奏した。もうひとつ、山下達郎さんのカバーを演奏した山上寿郎というバンドでも高橋君はドラムを叩いてくれた。
そして高橋君は2017年5月に他界。これを追悼するため、同じ年の11月に行なった“Live!5”では、山上寿郎のメンバーが再集結。ドラマーのみ別のメンバーを起用してほぼ同じナンバーを演奏した。また、伊藤さんはMMBⅡというバンドのゲストボーカリストとして出演し、同じく高橋君を弔った。
( 大谷達也 自動車ライター)
2015年6月号/ランボで市場を練り歩き
(八木亮祐 アウディジャパン)
「あーもいっかいやってもいいっすか、すいません」彼は自分のカットに納得がいかないと、ちょっと申し訳なさそうな言葉と共に、でもどうしても再挑戦したいという強い意志をいつも伝えてくれる。雑誌のロケはたいていギリギリのスケジュールでやっていて、現場には「もう一度」と言いにくい空気が漂っていることが多い。
中には気を遣い過ぎて、再撮影の意思を黙って呑み込んでしまうカメラマンもいるけれど、彼は絶対に呑み込まずすぐに吐き出す。編集者としては、こういうカメラマンと仕事がしたいと思う。
腹を割ってくれたほうがかえって信頼できるし、何より彼の場合、再撮した写真のほうが格段によくなっているからだ。
決して妥協せず、少しでもいいものを提供したいという使命感を持ってシャッターを押す。
彼は、間違いなくプロフェッショナルのフォトグラファーだった。
( 渡辺慎太郎 自動車ジャーナリスト)
高橋さんの写真は優しいと思います。それは見る人を緊張させない写真の上手さと被写体の人やクルマやモノに向ける視線の優しさなのではないでしょうか。
いつもCAR GRAPHICが出来ると高橋さんの写真を一枚一枚凝視して嫉妬しつつも勉強させていただいてました。
CG99年12月号の編集後記ですがよくもまあ偉そうに書いたものです。歳だけは上の私をさっさと追い越して行く高橋さんへの精一杯の強がりのつもりだったのでしょう。もちろんその後の高橋さんのご活躍は皆様ご存知の通り。
仕事上いろいろご迷惑をお掛けしたし、さんざん助けていただいたのに最後まで高橋さんに感謝の気持ちさえ伝えられませんでした。CAR GRAPHICの仲間になってくれたことに心から感謝します。
( 小河原 認 フォトグラファー)
高橋君のマツダ787Bの写真が表紙を飾った、Car Graphic 2011年8月号の取材のことを書いてほしいというご要望なので、当時の取材メモをひもとくと、この1991年ルマン24時間で優勝した「シャシーナンバー787B-002」号車を取材したのは2011年5月17日のこと。同年のルマンに、「002」号車は優勝20周年を記念して招待され、そこでデモ走行すべく大々的なオーバーホールを受けていた。そして車両が完成すると、片山義美、寺田陽次郎、従野孝司という元ワークス・ドライバーたちの手で走行するというので、私もそこに混ぜてもらい試乗する許可が下りたのだ。
取材地となるマツダの美祢自動車試験場(以前のMINEサーキット)へは、私と高橋カメラマン、他CGスタッフの計4名で、アウディA8に乗って東京から自走して行ったのだった。最高出力700psを発する4ローターのR26B型ロータリーエンジンに対して、車重はわずか830kgしかないのだから、787Bは痛快極まりない加速と敏捷性を見せ、デフロック仕様(デフ無しの100%ロック状態)のため、コーナーの立ち上がりでは常に後輪がスライドしっぱなしという、レーシング・マシーンならではのシビれる挙動に、私は酔いしれた。
その感動と興奮と迫力をどうやって写真でお伝えしようか? となった時に、高橋君はカメラカー(現場でワゴン車を借りた)のリアゲートを開けて、荷室から“引っ張り写真”を撮影したい、それも荷室の床にはいつくばって「ローアングルから撮りたい」と言う。けれども私たちは生憎、命綱となるハーネスを所持していない。すると、パドックでゴタゴタともめている私たちの話を、たまたま近くで聞いていた宮門秀行カメラマンが、ご親切にもハーネスを貸してくだることになり、なんとか並走撮影が出来ることに。並走撮影を始めると、荷室に寝そべった高橋君は、リアバンパーよりも下へ身を乗り出していく(!) ややややと思っていると、そのオーバーハング量はだんだんと増していき、やがてレンズ・フードが地面にくっつくのではないか、と思えるほどローアングルから撮っているではないか(!!)。お前は上海雑技団か。どうせ注意してもやめるわけないし、「いいッスよ、どうせフードが削れるくらいだから」と、いつもの調子でケロッとしているに決まっているから好きにさせておいたところ、見事にド迫力の表紙写真をモノにしてみせた。
彼が二玄社に入社してきた1992年以来、これと似たような事が幾度となくあった。普段は優男を装っているものの、いざとなると根性を見せる男、それが高橋君だった。
(大谷秀雄 カーグラフィック)
転職して“編集者1日目”を迎えた私の最初のロケ。高橋さんはまっ赤なフォーカスでやってきた。ものの1時間、あっけないほど取材はうまくいって颯爽と去って行く赤いフォーカスの後ろ姿を眺めつつ「うまくいってよかったナ」と思った。あっけないほど取材がうまくいったのは高橋さんのおかげだったのだと気付くのはそれから何年もあと。まともな説明も明確な指示もせずウロつくばかりの私を見るや、頭を切り換え現場でやるべき仕事を黙々とこなしてくれたからなのでした。文句のひとつも言いたかったでしょう。でも高橋さんはいつも静かなひとでした。静かに全部をいつも見てた。カメラマンの目で。仕事をなめちゃいかんよって、言葉じゃなくて行動でいつも教えてくれた。だから私は高橋さんとの取材のときはいつもなんだかちょっと緊張してしまう。
(三代やよい 文筆 編集)
私はずるいので、高橋さんのことをずっと思い出せないでいた。思い出そうとすると「なんでもっとちゃんとお礼を言えなかったんだろう」と悲しくて悔しくて、涙が溢れてしまう、という身勝手な理由で。でも、この回顧展にあたって、勇気を振り絞って、久しぶりに高橋さんとの思い出を紐解いてみることにした。
CGに入社した時、新しい編集部員が入るのは約10年ぶりだというのに、やってきたのがこんな小娘だったので、正直まわりからは好奇の目で見られていたと思う。でも、高橋さんは、それを気にもとめず、対等に私と向き合ってくれた。女性だからと言って、ひいきもしなければ、遠ざけることもせず、ただ「ひとりの新人編集者」として、厳しく、優しく教えてくれた。
高橋さんとはふたりで長距離の取材にでかけることが多かった。ドイツではシュトゥットガルドからハノーファーまで、床まで踏んでも160km/hしか出ないスマートを全開にして5時間かけてたどり着いたし(この時私は高熱出して迷惑かけた)、働くクルマの取材では、私の故郷の山形までロードスターで来てもらったし(消防士の私の叔父と一緒にそばを食べた)、ドライビングレッスンのために一緒に岡山国際サーキットまで来てもらったし(瀬戸大橋では大雨だったのにひっぱりを撮ってもらった)。
そんなロングドライブ中は、高橋さんのiPhoneで曲を流すことが多かった。「俺、この曲一番好きで、バンドでやりたいんだよ~」って言っていた、アン・ルイスの「あゝ無情」。私たちのバンドで実現できなくて、ごめんなさい。翌年のライブで私が演奏していた時、高橋さんは空の上からどんな顔をして見ていたんだろう、と今でも思う。
「ありがとうございます」と言っても「いいっていいって~」と受け流されてしまう気がするので、代わりに、これからは涙が出ても高橋さんのことを思い出そうと思う。そして、高橋さんが「こんなことやりたいんだよ~」って言っていたことや、たくさん教えてもらったことを、自分なりに精一杯実現していくんだ。
もう一度高橋さんと会えるきっかけを下さったこの回顧展に、心から感謝申し上げます。
(伊藤梓 自動車ライター/イラストレーター)
1999 LeMans
何気無く開いたカーグラフィックの中の1枚の写真。
あ、凄く良い写真だ。誰の写真だろう?気になるなー?
宏美さん、この写真を撮った高橋くんって、誰?
あ、最近カーグラに入った新人のカメラマンだよ。
え、新人なの?なんで?だって、凄く良いじゃん。
僕とは、感性の深さがまるで違うよ。
持ってる感性の世界が広いなー。
そうなのよ、彼は独特の世界感を持ってるでしょう。
写真は、無限大。
使う、カメラも、レンズも、光も、ロケーションも、自由だ。
全てが自由だけに、正解は無い。
しかし、長い時間、携われば、それなりに自分の中に決まり事が出来てくる。
そんな決まり事の枠を持たない新人に、びっくりした。
彼と一緒に仕事をする機会は、そんなに多くは無かった。
数回だけだが、一緒に仕事をした時には、僕は凄く心地良かった。
すーと、足りないことをサポートしてくれる。
サイドからレフ板があると良いなー、って思うと光がやってくる、あれ?
彼が、レフ板を持ってくれている。
あ、高橋くん、自分の写真を撮って、と言うと。
タンボさんが先に撮って下さい。と言う。
ダメだよ、高橋くん、譲らないで、一歩前に出ちゃう強さを持たないと。
と、心で叫ぶ。
でも、口では、ありがとう、先に撮るね。って感じだった。
僕にとっては、最高のパートナーだった。
いつも、ありがとう。
心の底から、本当にありがとう。
君の優しさを忘れない。
(北畠主税
フォトグラファー)
長い髪をバンダナでまとめ、いつも淡々と飄々と撮影に臨み、余計なことはあまり喋らず。6年後輩の視点からは、とてもクールな人に見えました。最初から雑誌の専属カメラマンだったせいか、常に取材の全体像がクリアに見えている人でした。
私が入社したての98年夏、裏磐梯の山中である事件が起きました。とある国産セダンの取材だったその日、私は朝から体調が優れず、ロケ中に磐梯吾妻スカイラインのトイレに籠ってしまったのです。
夕方には谷田部のテストコースで性能計測を控えていて、スケジュールがタイトだったこともあり、「どうしてカギを持ったままトイレに篭っちゃうんだよ!」と先輩記者から怒られ、慌てた私は財布を山中で落としてしまいます。気がついたのは昼食のときで、ひとり撮影現場まで戻って草原を捜索しますが見つからず。
昼食抜きでその後の日程に従事しなければならなくなった私は、よく覚えていませんが何かまたヘマをして、谷田部のコース上で先輩からドヤされるハメに。フラフラでクルマから降りてきて号泣する私に、高橋さんは「ほら、オレの非常食だ、食えよ」と、カメラバッグに入っていたカロリーメイトを差し出してくれました。あれは、本当に嬉しかったな。
あとハプニングといえば、東名の山北の下りで、高橋さんがご自分のボルボ940ターボ・エステートを運転して、僕がその隣に乗ったとき。たしか140km/hくらいで飛ばしている最中に、突如追い越し車線に故障車が停まっていて、完全にぶつかると思って身構えました。高橋さん、完璧なダブル・レーンチェンジで見事にクリアすると、トンネルを出て視界がパッと明るくなり。あのときも、クールでした。
メキメキ腕を上げていった高橋さんが、フリーランスとして独立するとき、「これからどんな仕事をしたいんですか?」と聞いたら、「自動車以外のこともやりたいんだよね」と言っていました。でも、実際には自動車メディアが放っておかず、そんな余裕はなさそうでした。フィルムを使った写真の最後の頃、あの当時の作風が私はとても好きです。
(田中誠司 ポーリクロム株式会社)
787B 1991年ルマン24Hレース優勝車 CG2011年8月号に記事掲載(表紙も撮影)。
渡辺太朗さんは竹早高校で高橋君の1年先輩だった。渡辺さんも音楽好きで、高校の音楽クラブに在籍。1年遅れで高橋君もこのクラブに所属する。当時、高橋君は同級生の金田さんとバンドを組んでいたという。
高校時代、渡辺さんは高橋君と一緒に演奏したこともなく、決して親密だったわけではなかったが、金田さんと渡辺さんが近所同士だったこともあり、交流があった。
高校を卒業すると高橋君は渡辺さんたちとバンドを結成。スタイル・カウンシルやスティーリー・ダンなどの曲を自分たちでアレンジしながら演奏を楽しんでいた。
大学卒業後、渡辺さんは西武百貨店に、高橋君は二玄社に就職し、やや疎遠になる。ところが2000年前後に渡辺さんと高橋君は相次いで会社を辞し、ともにフリーランスとして再出発すると、ふたりの関係はグッと近づいていった。
グラフィックデザイナーやアートディレクターとして活躍する渡辺さんとフォトグラファーを務める高橋君は“77graphics”という共同の屋号を考案。同じ名のウェブサイトを立ち上げ、メールアドレスを設定した。「数字を入れたほうがドメインが取りやすい」と提案したのは渡辺さん。当時、ふたりは横浜・本牧にあるIG(イタリアン・ガーデン)というバーに足繁く通っており、ここで高橋君がよく飲んでいたのが“7 and 7”。これは7クラウンというウィスキーと7Upから作るカクテルだった。
渡辺さんと高橋君は何度か一緒に仕事をしている。一部はこの会場にも展示されているが、その多くは渡辺さんがアートディレクターを務め、フォトグラファーを自由に選べた案件。仕事の領域は多岐にわたったが、なかでも音楽アーティストのCDジャケットを作成するなどの共同作業が少なくなかった。「僕がグラフィックデザイナーとして歩み出すとき、最初のコンペを勝ち取ることができたのは高橋が撮ってくれた写真のおかげ。世界観も僕と近かったし、いつもいい写真を撮ってくれるので僕は信頼していた。クライアントからの評判も上々でした」と渡辺さん。
渡辺さんが持ってきてくれた仕事は、音楽好きで、クルマ以外にも活動範囲を広げたいと思っていた高橋君にとっては願ってもない話だったはずだ。
渡辺さんはいまも77graphicsのドメインを使い続けている。
( 大谷達也 自動車ライター)
フリーランスのカメラマンとして
2000年。佐野元春さんとの仕事をきっかけに会社を辞めて、僕もフリーランスの仲間入りをした。とは言っても、続く仕事のアテがあるわけでもなく、失業保険が切れたらどこかの会社に就職するつもりだったのだけれど、前職の会社から「社員教育の別会社をつくるから会社案内のデザインコンペに参加しないか」と声をかけてもらい、高橋に写真を撮ってもらったデザインが評価を得ることができてグラフィック・デザイナーとしての初仕事をすることになった。
それでもまだ「この仕事が終わったらどこかに就職しよう」と思っていたのを、「大丈夫、そのうち食えるようになるよ」と、根拠もなく楽天的に励ましてくれたのも高橋だった。その頃、じゃあ一緒にウェブサイトとメールアドレスをつくろう、ということになって立ち上げたのが「77graphics(セブンセブングラフィクス)」だ。
高橋の予言通り、ありがたいことにその後も多くの方々に声をかけていただき、なんやかんやと20年もの間、仕事をさせてもらえている。この間、高橋と一緒にやってきた仕事の一つが、2004年に始まった「私の針仕事展」だ。この企画はその後も毎年開催されていて、2016年まで高橋が撮影した。この仕事を通じて高橋の写真と人柄がクライアントに高く評価されて、僕が関わらない仕事でもたくさんの撮影依頼を受けていた。残念ながら高橋の最後の仕事になってしまった「リカちゃん展」の撮影も、高橋が個別で受けていたものだ。一時退院したときに一緒に銀座に行って「リカちゃん展」を見たのを思い出す。
その他にも、僕がアートディレクションをした仕事では、クライアントの指定がない限りはいつも高橋に写真を撮ってもらっていた。フリーランスのアートディレクター/デザイナーとしては、信頼できるカメラマンが身近にいるということは、とても心強く、仕事をする上での大きな強みでもあった。あたり前のように高橋がいたことが、いつも僕を助けてくれていたのだった。
CDジャケットも何枚か高橋と一緒につくった。音楽で育ってきたという共通のバックグラウンドを持つ僕らにとって、CDジャケット制作はある意味で特別な仕事だ。高橋は仕事の話をあまりしなかったけど、音楽の仕事のあとは「楽しかったよ」とよく言っていた。その中でも僕がとくに気に入っているのは2009年につくった、THE GROOVERSの「ROUTE 09」だ。高橋とタッグを組んで、音楽の世界観をうまく表現できたのではないかと自負している。できあがったジャケットを、バンドのメンバーも、ファンの方も気に入ってくれたのを二人で喜んだ。
高橋の写真の魅力は「行きすぎない情緒性」だと思う。サラっとした手触りの中に見え隠れするロマンティシズム。それは高橋の生き方そのものだ。
(渡辺太朗/77graphics グラフィック・デザイナー )
大型カメラ(4×5)でのテスト撮影。2000年
ポラロイドフィルムで、シャッターをバルブにして、光をモデルに当てる、ブラッシング撮影。
モデルは、デザイナーの渡辺太朗さん。
1988年頃、新宿都庁建設現場。
一番右が高橋さん。
セルフタイマーで撮影。
THE GROOVERS CDジャケット撮影時の
ポラロイド写真。
高橋さん愛用カート
彼が愛用していた折りたたみ式カートを、今でも保管してありますよ。
(談 カーグラフィック編集長 竹下元太郎)
*
現在、カーグラフィック編集部に保管
海外モーターショーにて多数使用
0.00.00
0.00.15 加藤哲也 (カーグラフィック社代表取締役社長)
0.06.17 竹下元太郎 (カーグラフィック編集長)
0.31.34 大谷達也 (自動車ライター)
0.34.18 荒川正幸 (フォトグラファー)
0.41.17 渡辺太郎 (デザイナー・77GRAPHICS)
0.57.20 どLIVE ! 4@原宿アストロホール 2016 11/5
ドラム 高橋信宏 / ベース 大谷達也 / ギター 八木亮祐 / ボーカル 伊藤梓 /
赤いスイトピー / 六本木心中 / ローリングスター / カントリーロード /
0.58.05 荒川正幸 (フォトグラファー) 高橋君入社エピソード
0.58.39 大谷達也 (自動車ライター)
1.00.41 塚原久 (トヨタ自動車株式会社GRブランドマネジメント部) 高橋くんとの想い出
1.01.59 木内洋治 (ポルシェジャパン)
1.02.38 小河原認 (フォトグラファー)
1.03.04 田中誠司 (ポーリクロム株式会社)
1.04.03 竹下元太郎 (カーグラフィック編集長)
1.06.26 北畠主税(フォトグラファー) 何気無く開いたカーグラフィックの中の1枚の写真
1.07.44 伊藤梓(自動車ライター/イラストレーター)
1.11.26 八木亮祐(アウディジャパン)
1.12.12 渡辺慎太郎(自動車ライター)
1.12.45 桐畑恒治(ライター&エディター) 2015年6月号 / ランボで市場を練り歩き
1.13.18 渡辺太朗 (デザイナー・77GRAPHICS) フリーのカメラマンとして
1.15.51 カントリーロード 高橋さん写真
1.19.43 竹下元太郎 (カーグラフィック編集長)高橋は今後、どのような活動をしたのだろうか?
1.21.10 高橋信宏 回顧展
敬称略
ご紹介いただいた媒体様
カーグラフィック社 様
CAR GRAPHIC 2020年6月号
新潮社 様
ENGINE 2020年7月号
ネコ・パブリッシング社 様
LEVOLANT 2020年7月号
ネコ・パブリッシング社 様
CARS MEET WEB
https://carsmeet.jp/2020/06/16/156119/
父:高橋孜 母:さわ子
加藤哲也(カーグラフィック社 代表取締役社長)